映像作家・村岡由梨のブログ http://www.yuri-paradox.ecweb.jp/

鈴木志郎康新詩集「声の生地」の感想

 

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【3月に志郎康さん・麻理さんと食事をした時に頂いた、志郎康さんの新詩集「声の生地」。いつもカバンに入れて持ち歩いて読んでいたので、すっかり薄汚れてしまいました。】

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【ばっちりサインも書いてもらった(笑)。横のは、この前図書館で借りた、志郎康さん1983年の詩集「融点ノ探求」】

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【同じく図書館で借りた、志郎康さんの詩の絵本「手と手をこするとあつくなる」(1986年)(絵は飯野和好さん) 志郎康さんのことば遊び的な感覚は、絶対絵本向きだと思う。また絵本作って下さい!(余談だけど、野々歩さんが「この本、昔家にあったけど、こんなに小さかったんだねー」と言ってました。本が縮んだんじゃなく、野々歩さんが大きくなったんだよね!)】

 

 「ことばってすごいなあ」と思う出来事が、最近立て続けに2件起こりました。

 

 一つ目は、私の友人・彩鳥さんのブログ「彩鳥のさえずり 絡繰日記」の「懐かしい投影たち」っていう記事を読んだ時。特に以下の部分。

 

 例えば実際に触れることのできる何かを自分の腕に抱きしめているとして、そのものに「懐かしい」という感覚を感じたら、そのものは最も間近く触れているにも関わらず、決して手の届かないとても遠いところにあるような感じを与える気がします。決して触れることが出来ないイデアの世界に。(「彩鳥のさえずり 絡繰日記」の「懐かしい投影たち」より)

 

 これを読んで、「そうそうそうなんだよ!良く言った!あっぱれである!」と思わず私、興奮してしまったのです(笑)。というのは、私が近作「yuRi=paRadox〜眠りは覚醒である〜」などでしつこく用いて、今後もしつこく用いるであろうモチーフの「青空」って、正にこういうことだからです。そうか、私の「あれ」を言葉に変換すると「イデア」だったのか、という感じ。「あれ」っていうのは、最近私が「解脱」「解脱」と言ってるその「先」のことです。

 

 ことばってすごい。ことばにすることによって、自分の中の何かを、自分以外の誰かと共有することが出来るんだもの! すごいすごい!

 

 あともう一つは、今回タイトルにもなってる、今春出版された志郎康さんの新詩集「声の生地」を読んだ時のことです。

 

 私は志郎康さんの詩が大好きで、特に、家にある「現代詩文庫 続・鈴木志郎康詩集」におさめられている「妻の不機嫌」(「家の中の殺意」(1979年)より)っていう詩が好きで、もう数え切れないほど読んでます。結婚生活に不安を感じた時とかにね(笑)。志郎康さんと野々歩さんは親子なので、やっぱり思考回路が似ているのです。こう言うと二人とも「違う」と言うんですが(笑)、やっぱり非常に似ています。志郎康さんの詩にありそうなことを、日常の中で野々歩さんが言ったりやったりなんてことはしょっちゅうだし、麻理さんが不機嫌な時の志郎康さんの反応は、私が不機嫌な時の野々歩さんの反応にそっくりです(笑)。何にしても「身近に感じる」というのが、まず第一に好きな理由かも。志郎康さんの極私的な表現って、周りの人間に独特のスリルを与えるんだと思います。先日イメージフォーラムフェスティバルでお会いした、志郎康さんの旧友の桜井さんと北澤さんが「新しい詩集(=『声の生地』のこと)に、僕らの名前が登場してるんですよ」って嬉しそうに恥ずかしそうに話していた姿からも、「極私的な表現に巻き込まれた人達」が感じる「独特のスリル」が皆間みえて興味深かったです。

 

 ちょっと脱線し過ぎちゃった(笑)。

 何はともあれ、この詩集を読んだ直後の感想は、ただもう一言。

 詩集「声の生地」はとても優れた表現で、鈴木志郎康はとても優れた表現者だ、ということ。

 詩集を頂いた日に帰宅してすぐ飛ばし読みし始めて、飛ばし読みなのに、暫し呆然としてしまったくらい、その表現に打ちのめされてしまいました。

 

 この詩集は、今年73歳になった(刊行時は72歳)志郎康さんの日々や身体的な老い、「ことば」の持つ力などについて思いを馳せた詩や、「記憶の書き出し」というタイトルの、自身の生い立ちを描いた長編の詩などから構成されています。

 読んでいてまず第一に「老いるということ」について、やはり考えさせられたんだけど、「志郎康さんは生まれた時は赤ちゃんだったんだ」っていう事実に私はすごく胸がざわついたのね。そんなの当たり前、生まれた時は赤ちゃんで、それが少年になって青年になってノていう過程を経て今の志郎康さんになった、そんなの当たり前なんだけど、これらの現実が単なる「ことば」を超えた何かになって、私の心に突き刺さったのね。ああ、そうなのか、そうだったのか、と事実が「ことば」を超えてその真実に「共鳴」して、胸がざわざわざわついたのです。

 この胸のざわつきは、今までにも何度か経験していて、私は仕事上、色々な老いと直面している方々と接する機会があるんだけど、80歳を過ぎたアルツハイマーの女性が、ある瞬間少女期に戻ってしまって「お母さん」と言って泣く姿や、現在ほぼ全身マヒの状態になっている女性が「昔は山スキーをやっていた」なんて話を聞いた時とかに、同じような胸のざわつきを感じます。 何ていうかノ老いとかそういう表層の部分を突き抜けて、その人の核のようなものに触れてしまった、っていう感じ。

 

 でも、やはり、この詩集のクライマックスは一番最後の「詩について」という一篇だと思います。

 何かしらの表現をして生きている人ならば、この詩から必ず何か感じるものがあるはず。私も文字起こしをしながら、改めて強く心を揺さぶられて、涙が出そうになりました。色々な人に是非読んで欲しい詩です。

 

「詩について」

 

キーを打つ。

詩について、詩に書いてしまおう。

どっと来る。

思い。

タッタッタッ、タ

ビューングッテンガ

思い以上のある種の込み上げ。

わたしは

詩人。

職業と言えない詩人という呼称。

わたしの誇りだ。

 

お金で生活する社会なのに、

詩を書くことは金銭を稼ぐことにならない。

わたしが書く詩は、

売り買いの価値とは無縁だ。

当たり前だ。

売ることを第一に書いているわけではない。

でも、なんかの拍子に、売れに売れまくればいいんだが、

と、ちょっと思って、

直ちに、否定する。

好き勝手に書いた言葉が、

この時代の多くの人に買われて広く流通する筈がない。

皆さん、忙しい。

それぞれ、自分のことで一杯。

名が売れているわけではない。

権威に保証されているわけではない。

わたしの言葉の前に

立ち止まる筈もない。

でも、ね。

幾らかは読まれる。

わたしには、

そこがねらい目だ。

受け止めてくれる人がいる。

無駄でないと思える。

自由がある。

自由に言葉をつかうという、

その自由の限界を超える。

言葉が生まれる瞬間ということ、

見えないけど、

それはある。

あるんですよ。

 

詩作は純粋に個的な所行だけど、

始めからいつでも社会に囲繞されている。

言葉が背負う矛盾。

わたしは、ペンネームを使って、

詩を書いてきましたね。

戸籍を超えて、

固有な個として同姓同名は嫌だと、

ペンネームを作った。

康之の康を残して

四男で四郎、それを志郎にして

紛らわしい鈴木で呼ばれないために

ありふれていない漢字の並び方で志郎康に決めた。

書かれた詩が詩人を作る、

個が社会を作る。

と、まあ、かっこよく言えば、そういうこと。

 

志郎康は

わたし。

詩を書いた。

あの瞬間を求めて、

夢中に、時間を経て、

二十二冊の詩集を出した。

数えてみたら、

五百篇余りの詩を書いていた。

今、二十三冊目の詩集を出そうとしている。

この夏には、記憶を辿って長い四つの詩を書いた。

それも入れて詩集にする。

詩集を作ることを思うと元気が出る。

わくわくする。

身体は万全ではない。

長く座っていると腰と脚が痛くなる。

右脚に力が入らないから、

階段を右脚から登れない。

毎週二回の加圧リハビリをやっている。

七十二歳だ。

からだにがたが来るのは仕方ない。

勤めるところが無くなって、

収入は年金だけ。

人の関係が希薄になっている。

詩を書くのに凄くいい生活になったのかと思う。

二年前に、七十歳で、わたしは

「口開けて、

草に埋まる、

アハ、アハ。」

なんて書いたけど、

その後、この夏に四つの詩を書いて、

ちょっと違うぜ、と思った。

そして、この詩を書いている。

 

否応なしに社会的存在なんだ、わたしは、

なんて言っても、ぴんと来ないね。

キャッシュディスペンサーが苦手、

といっても、これと交渉しないと生活できない。

そこで、わたしは自分が社会的存在だということを自覚する。

年金で生活を成り立たせ、

健康保険で加齢の脚の障害を癒している。

杖を突いて駅に行けば、バリヤフリーを気にする。

電車やバスの優先席に座る。

でも、このわたしの生存を許容している社会に、

感謝なんてしてない。

積極的に社会に貢献しようなんて思わない。

しかし、

詩を書くってことは、

脳内に現前する個的な所行だが、

否応なしに社会的な行動だ。

言葉っていうものがそういうものだ。

それで、むにゃむにゃと、

貢献度が計られる。

よくやった、とか、

優れている、とか、

嫌だなあ、と思う。

だから、

「口開けて、

草に埋まる、

アハ、アハ」

となる。

それは違うぜ、ふざけるな。

 

生きる自由だ、

詩は。

他人から遠く、

密かに、

元手も掛けずに、

言葉を社会から奪って、

世界を名付ける

声、

願望が

時間を濃縮する、

瞬間の自由だ、

詩は。

未完の自由だ、

詩は。

まあ、そう気張らないで、

個の地平に

立て。

この原則を

守れ。

ビュン、ビュビューン

ビュン、ビュビューン

ラ、ラ、ラ

(鈴木志郎康・著「声の生地」(書肆山田)より)

 

 

 志郎康さんには、いつも「とにかく続けなさい。作り続けなさい。」と言われます。

 この「詩について」という詩は、73歳の現在まで表現者として走り続けてきた志郎康さんが辿り着いた境地であり、勝利であると思います。こう書いてしまうと「終わり」のように聞こえてしまってイヤなんだけど、ここで終わりじゃないっていうのが志郎康さんのすごいところ。 私はこの先何度もこの詩を読みたくなって読むと思います。 志郎康さんの表現も、志郎康さんが一日も欠かさずに書いているブログみたいに、延々としつこく続いていくんだと思います。この「しつこさ」、幼児が描く絵に似ているよね。モチーフに対する思いが限りなく純粋で、とにかくしつこい(笑)。でもしつこいって重要だよねノってこの話は長くなるから、また今度!

 何はともあれ、私が何を書きたかったのかというと、「私も詩を書いてみたい」と思った、ということです。