映像作家・村岡由梨のブログ http://www.yuri-paradox.ecweb.jp/

ブログを書くということ

 3/4の書き込みで「ブログはもう書かない」と書いたのに、もう早ちょびちょびと書き込みを再開していたことに、野々歩さんは昨日まで全く気付かなかったらしく、「書かないって書いてたじゃん」と半分あきれ顔で笑われてしまったので、ブログのサブタイトルを「村岡由梨兵衛のブログ」から「村岡由梨β(ベータ)のブログ」に変えてみた。(真意は我ながら全く意味不明(笑))…私の気分が変わりやすいことくらい、知ってるじゃんか、ののほさんよ…! 「ブログをもう書きたくない」と思えばそう書くし、書きたかったら書くし、書きたくなかったら書かないしさ! それだけのことよ!

 このブログに関しては、内容等に全く統一感が無くて雑然としていて、我ながら時々嫌になって記事を全消去したくもなっちゃうんだけど、人間って言葉に書くことによって妙に落ち着いたりするもんなんだよね。(今日の読売新聞の「人生案内」で出久根達郎さんも同じようなことを書いてたよ。) 自分が書いたことを自分で読み返して「ふーん」って思うこともあるし。

 ところで、昨日の書き込みで「私の授乳中の苦しみもまた、誰も理解することは出来ない。」って書いたけど、この前アメリカで起こった銃乱射事件の犯人も同じような心境だったんじゃないか、とふと思った。「自分の苦しみなんて、誰も理解することが出来ない」っていう心境ね。だからって、亡くなった人達やその家族の心境を想像したら、彼(犯人)がやったことを肯定する気なんてさらさら無いけれど。でも、もし、この犯人のそばに、彼の存在を心から美しいと思っていて、彼のことを心から愛していて、彼の存在を心から肯定している人がいて、もっと言えば、彼がその人と結婚したりして可愛い子供に恵まれていたりしたら、こんなことにはならなかったんじゃないか、って思えてならない。 誰にだって「自分の存在を肯定してくれる人」の存在は必要だと思う。どんなに世の中に絶望していても、「君の存在は美しい」って言ってくれる人が一人でもそばにいてくれるだけで、生き延びることが出来ると思う。…っていうのが結婚した私の感想(支離滅裂な展開だね(笑))。「結婚」っていうのは、二人の人間がお互いを肯定しあった結果たどり着く結論だと思うから。

 話は横道にそれたけど、結局、私に出来ることといったら、昨日までの自分の罪を悔い改めつつ、今日からは安易に人を傷つけるような生き方をしないよう努力することと、自分の子供が安易に人を傷つけるような人間にならないように育てる、ってことくらいかなあ…どっちもべらぼうに難しいけど(笑)。特に後者ね。 でもこれだけは言える。 人間は生まれながらにして邪悪ではないということ。 産まれたばかりで臍の緒がまだつながっている状態の眠を自分の胸に抱いた時のことは、今でもはっきり覚えてる。あんなに無垢なものを目の当たりにしたのは初めてだった。 きっと、米乱射事件の犯人も、産まれたばかりの時はあんな風に無垢な存在だったんだろうなあって思う。